日本の明治以降を、アメリカ占領軍と日教組の都合によって、否定されたままにしておくことは出来ない。そのためには、明治以来の戦前の日本を、恐ろしい侵略国に仕立てあげた東京裁判を、形式ばかりかその内容についても拒否する必要がある。

「この問題の核心は、日中戦争と日米戦争が、日本の侵略であったかなかったかに帰着する。これが実に難しい。侵略という言葉の定義が明確でないからだ。侵略と侵攻は区別されている。侵攻は相手方勢力や相手方領域を攻撃する行動で、定義は明確である。

一方、侵略とは相手方の主権や政治的独立を奪う目的で行われた侵攻のことで、東京裁判ではこの定義を適用したが、日本の行った二つの戦争は、この定義における戦争でなかった。

日本は、盧溝橋事件(昭和12年)以来の日中戦争で、中国の主権や政治的独立を奪おうとしたことはない。1900年の北清事変後に結ばれた北京議定書で、日本軍は合法的に駐留していた。発端となった盧溝橋事件において最初に発砲したのは中国側である。

日本軍の反撃開始は、はじめの発砲を受けてから7時間も経過していた。この衝突に関し日本側は、政府も参謀本部も共に不拡大方針だった。従って間もなく戦闘は停止された。ところが、中国軍は引き続き北京の通州で日本人居留民を襲撃、230名を虐殺した。

そうしたことが重なり、遂に国民も激昂、近衛内閣は不拡大方針を見直し、上海派遣軍を送り本格的戦闘に入った。その裏に、日本の明治以来の仮想敵国ソ連の画策があったのである。ソ連の仮想敵国は、ヨーロッパではドイツ、アジアでは日本だった。

ソ連は、ナチスドイツの侵攻に備えるため、西部戦線に兵力を集中したかった。そのためには、日中を本格的な戦闘状態にするのが一番だ。そこで、コミンテルン支部である中国共産党に働きかけ、国府軍と共に抗日戦をするよう企んだ。

スターリンに入れ知恵された毛沢東は、国府軍と日本軍の共倒れを図り、漁夫の利を得ようとした。日本は、主敵ソ連による画策などとは夢にも思わず、挑発に乗り、何の目的もない泥沼の戦争へ引き込まれて行った。

日米戦争も、アメリカの主権や政治的独立を奪おうなど考えた者はいない。故に定義上の侵略ではない。アメリカは、日本軍による1940年のインドシナへの進駐に対し、クズ鉄や銅の禁輸、在米資産の凍結や石油の禁輸で応じた。

この進駐は、宗主国フランスのヴィシー政権の許可という体裁を整えたうえで、アメリカなどによる蒋介石支援ルートを遮断する目的で行われた。実はアメリカは武器援助だけでなく、フライイング・タイガースという空軍部隊も中国へ派遣していた。

そのアメリカには、1930年代からソ連スパイが政府機関に入りこみ、40年代にはアメリカ共産党員を含め数百人が紛れ込み、動いていた。」

日本は、日米交渉に全力を尽くした。しかし大統領の側近にまで入り込んでいたソ連スパイは、ルーズベルトを戦争へと煽っていた。一方、日本の近衛首相の周辺にもソ連スパイが張り付き、インドシナへの南進を勧めていたというから、おそろしい。